激しく砕け散る巨大な白波の彼方に静かに佇む霊峰富士を描いた葛飾北斎風の和風幻想アート(森の灯り)

葛飾北斎『冨嶽三十六景』の幾何学と視覚革命――藍摺の衝撃から世界を揺るがした波の造形美へ

古希を過ぎて到達した境地――画狂老人卍の挑戦

巨大な波の爪が獲物に襲いかかるように激しく砕け散り、その猛威の彼方に、静まり返った霊峰・富士山が悠然たる孤高の姿を見せる――。葛飾北斎(1760〜1849年)の代表作『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)』は、日本美術の枠を遥かに越え、世界中で最も知られ、最も引用されている絵画の一つである。しかし、この前人未到の傑作シリーズが世に出たとき、北斎はすでに70歳を超えていた。波乱万丈の生涯の中で90回以上の転居を繰り返し、30回以上も号を変え、貧困と家庭の不幸に喘ぎながらも、絵筆を握り続けた老絵師は、なぜ人生の晩年においてこれほどまでに革新的でみずみずしい「視覚革命」を起こすことができたのだろうか。

北斎は自らを「画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)」と称した。彼は80代になってもなお、「70歳以前に描いたものは取るに足らない。73歳にしてようやく動植物の骨格や生態が少し理解できた。80歳になればさらに進歩し、90歳で奥義を極め、100歳にして神妙の域に達し、110歳になれば一点一画が生きて動くようになるだろう」と語っている。その飽くなき探求心の集大成として、天保元年(1830年)から刊行が開始されたのが『冨嶽三十六景』全46図(当初の36図に加え、大ヒットにより追加された10図)であった。

それまでの浮世絵界における主流は、吉原の花魁を描く「美人画」や、歌舞伎役者を描く「役者絵」であった。山川や街道を描く「名所絵(風景画)」は、単なる背景や絵入りの道中案内書にすぎず、芸術的評価は決して高くなかった。北斎はこの風景画の地位を一変させ、独立した至高の芸術ジャンルへと押し上げたのである。

江戸下町の長屋で白髪の葛飾北斎が筆を走らせ『冨嶽三十六景』を描く歴史再現アート古希を過ぎて新境地を拓いた葛飾北斎の創作情熱(歴史再現イメージ)

ベロ藍(プルシアンブルー)の衝撃――青の視覚革命と浮世絵版画

『冨嶽三十六景』が当時の江戸庶民に与えた最大の視覚的衝撃は、それまでの日本画には存在しなかった、吸い込まれるように鮮やかで深い「青」の表現であった。

従来、日本の木版画で青を表現するためには、露草(つゆくさ)の花弁から抽出した藍や、植物性の本藍(タデアイ)が用いられていた。しかし植物性の染料は、日光や空気に触れると急速に褪色して薄汚れた茶色に変色しやすく、また版木に乗りにくいため、広大な空や深い海を均一に美しく刷り上げることが極めて困難であった。

そこへ1820年代末、中国を経由してヨーロッパから日本へ密かに輸入され始めたのが、18世紀初頭にベルリンで偶然発見された化学合成顔料「プルシアンブルー(紺青・フェロシアン化鉄)」であった。江戸ではベルリンの地名にちなんで「ベロ藍(ベロあい)」と呼ばれた。

ベロ藍は、従来の植物染料とは比較にならないほどの高い発色性、耐光性、そして水への溶解度を持っていた。薄く溶かせば透明感あふれる淡い空の青となり、濃く練り合わせれば深海のような漆黒の紺碧となる。北斎はこの新素材の可能性を誰よりも早く見抜き、『冨嶽三十六景』の全編に惜しみなく投入した。初期の摺りでは、輪郭線までもが墨ではなくベロ藍の一色で刷られる「藍摺(あいずり)」が試みられ、江戸の町人たちは、これまで見たこともないクールでモダンな青の世界に熱狂したのである。

また、ベロ藍の採用は単なる絵師個人の好みに留まらず、版元・西村屋与八(永寿堂)の先見的な商業戦略でもあった。当時、天保の改革の前夜にあって幕府による贅沢品の取締りが強まる中、与八と北斎は、派手な多色摺りではなく藍の濃淡を基調としたシックで格調高い「藍摺」を前面に押し出すことで、幕府の風俗取締りを回避しつつ、知的好奇心に富む富裕な町人層の購買意欲を巧みに刺激した。良質な輸入品を惜しみなく投入できた背景には、長崎貿易を通じた最新物資の流通網と、江戸の成熟した出版マーケットの存在があったのである。

舶来の顔料ベロ藍の鮮やかな青のグラデーションで摺られた浮世絵風景画アート浮世絵界に革命を起こした化学顔料「ベロ藍」の色彩美(藍摺イメージ)

コンパスと定規が織りなす幾何学――円と三角形の黄金比率

北斎の絵画が持つ時代を超越した強靭さの秘密は、感覚的な写生にとどまらない、極めて緻密な「幾何学的コンポジション(幾何学構図)」にある。

北斎は文化9年(1812年)に刊行した絵手本『略画早指南(りゃくがはやおしえ)』において、「定規とコンパスを用いて円と直線を引くことで、森羅万象あらゆるものを誰でも正確に描くことができる」という独自の造形理論を説いている。この幾何学的手法が最も完璧な形で適用されたのが『冨嶽三十六景』であった。

たとえば『神奈川沖浪裏』の画面を分析すると、激浪の弧は黄金螺旋(対数螺旋)を描きながら巻き上がり、その中心点に遠景の富士山が正確に収まるように計算されている。手前の舟の曲線、波頭の飛沫、そして背景の三角形の富士山が、動と静、大と小、円弧と直線の鋭い幾何学的対比を形成している。

また、『尾州不二見原(びしゅうふじみがはら)』では、職人が作る巨大な円形の桶の枠の中に、遠くの三角形の富士山をすっぽりと閉じ込めるという大胆な額縁効果(フレームインフレーム)を創出した。さらに『凱風快晴(がいふうかいせい、通称・赤富士)』では、余計な夾雑物を一切削ぎ落とし、雄大な三角形の稜線と、空にたなびく鰯雲の水平線だけで宇宙的なスケール感を現出させている。西洋の遠近法(透視図法)を消化しながら、それを大胆に歪曲・再構築して独自のグラフィック美学へと昇華させた北斎の手腕は、まさに天才の所業であった。

パリの印象派のアトリエでモネやゴッホが北斎の版画に見入る19世紀ジャポニスムの情景アート西洋の近代絵画に決定的な衝撃を与えたジャポニスム(美術史イメージ)

世界を揺るがしたジャポニスム――ドビュッシー・モネ・ゴッホへの反響

幕末の開国後、万国博覧会などを通じてヨーロッパに渡った北斎の浮世絵は、西洋の芸術界に地殻変動をもたらした。いわゆる「ジャポニスム(日本趣味)」の爆発である。

ルネサンス以来、ルールの厳格な明暗法や正確な遠近法に縛られ、行き詰まりを感じていた西洋の画家たちにとって、北斎の大胆なトリミング、平坦な色面構成、そして対象の本質を一瞬で鷲掴みにする躍動的なデッサンは、まったく新しい「見る技術」の啓示であった。

クロード・モネは自宅の壁一面に北斎らの浮世絵を飾り、エドガー・ドガは『北斎漫画』の人物ポーズを熱心に模写し、フィンセント・ファン・ゴッホは「北斎の絵を見ていると、まるで哲学者や賢者の言葉を聞いているようだ」と弟テオへの手紙に熱烈な賛辞を書き残している。さらに音楽界においても、フランスの作曲家クロード・ドビュッシーが『神奈川沖浪裏』の波のダイナミズムに深い霊感を受け、交響詩『海』を作曲し、その初版スコアの表紙に北斎の波の絵を採用したことはあまりにも有名である。

一介の浮世絵師が、遠く離れた江戸の片隅で、ただ「生き生きとした線と色」を追い求めて彫り上げた版画の数々。北斎が切り拓いた視覚革命は、時代と国境を軽やかに飛び越え、今日のアート、デザイン、写真、アニメーションに至るまで、世界中の視覚表現の深層に消えることのない巨大な波紋を広げ続けているのである。

森の灯りの作品で楽しむ日本の歴史

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・吉原遊郭の社会構造と花魁の格調――江戸の格式・年中行事と浮世絵に描かれた光と影

参考資料・出典

  • 浅野秀剛『葛飾北斎 富士を追いかけた画狂老人』吉川弘文館、2014年
  • 永田生慈『北斎の世界』講談社学術文庫、2017年
  • 辻惟雄『日本美術の歴史』東京大学出版会、2005年
  • 内田千鶴子『ベロ藍の謎――浮世絵の青い革命』雄山閣、2008年
  • 馬渕明子『ジャポニスム――幻想の日本』ブリュッケ、2015年

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