月明かりの竹林で黒装束の忍者が地面にかがみ込み和紙の忍術秘伝書『万川集海』を広げて火薬の調合と方位を確かめる和風幻想アート(森の灯り)

忍術書の秘伝と忍者のサバイバル術――『万川集海』『正忍記』に記された五行遁術と心理戦の実態

歴史資料の記述について:本記事の忍薬に関する効能は、当時の資料や伝承に見られる主張として紹介しています。現代医学で効果が実証された方法ではなく、丸薬は食事や水分補給の代わりになりません。環境省の水分補給に関する案内もご確認ください。

暗殺者ではなく生存のプロフェッショナル――忍術の本質

煙とともに一瞬で姿を消し、手裏剣を投げて敵を仕留める黒装束の暗殺者――。映画や漫画によって世界中に定着したこの「ニンジャ」のイメージは、実際の歴史的実像とは大きくかけ離れている。

本物の忍者(忍びの者)にとって、最も重要な掟は「絶対に戦わないこと」、そして何があっても「生きて主君のもとへ情報を持ち帰ること」であった。

敵地で命を落としては、どれほど重要な機密を掴んでいても何の意味もない。忍者が命懸けで磨き上げた「忍術」の真髄とは、武力による制圧ではなく、極限状態を生き延びるための「総合サバイバルサイエンス(野外生存術・薬学・気象学・人間心理学)」であった。

その驚くべき知恵の全貌を現代に伝えるのが、江戸時代前期に伊賀・甲賀の忍術を集大成して編纂された「三大忍術書」――延宝4年(1676年)の藤林保武著『万川集海(ばんせんしゅうかい)』、天和元年(1681年)の名取三十郎著『正忍記(しょうにんき)』、そして『忍秘伝(にんぴでん)』である。

これらの秘伝書を開くと、そこには迷信やオカルトではなく、現代の特殊部隊やサバイバル専門家をも唸らせる、合理的で科学的な知恵の体系が克明に記されている。

さらに『万川集海』の冒頭には、「正心(せいしん)」という哲学的な章が据えられている。どれほど優れた技術や兵器を持っていても、術者の心が私利私欲や邪悪に染まっていれば、それは単なる泥棒や悪党に堕ちてしまう。自己の倫理観を厳しく律し、平和と秩序のために技を用いる精神の清らかさ――これこそが、忍術を単なる犯罪技術から高潔な道(忍道)へと昇華させた精神の礎石であった。

伊賀(三重県北西部)と甲賀(滋賀県南部)が忍者の二大発祥地となった背景には、その峻険な盆地地形と、古くからこの地に根づいていた「山岳修験道(山伏)」の存在がある。四方を険しい山々に囲まれたこの地域は、大名による支配が及ばない「独立した自治共同体(惣国一揆)」を形成していた。山中で過酷な修行を重ねる山伏たちから、野草の薬効、天候予知、断食や呼吸法、そして獣道を利用した山岳移動術を学んだ土豪たちが、自らの郷土と自由を守るための防衛技術として体系化したものこそが、忍術の原初のかたちであった。

草木に紛れる木遁、池に潜る水遁、煙幕を使う火遁など五行思想に基づく五遁(ごとん)の術を解説する古文書風アート自然の科学を利用した脱出術「五行遁術の真相」(忍術科学イメージ)

五行遁術(五遁)の真実――自然の法則を味方にする脱出の科学

忍術の代名詞として知られる「遁術(とんじゅつ)」、とりわけ古代中国の五行思想(木・火・土・金・水)を応用した「五遁(ごとん)の術」は、魔法のような変身術ではなく、自然環境の物理的・生物学的特性を極限まで利用した「環境偽装・隠密離脱術」であった。

1. 木遁(もくとん): 森林や竹林に身を隠す術。木の葉や枝の揺れに自らの呼吸を同期させ、樹上に身を潜める。また、追っ手が迫った際に木の実を遠くへ投げて物音を立て、注意をそらす囮(デコイ)の技術も含む。

2. 火遁(かとん): 煙や火薬の閃光を用いて敵の視覚と呼吸を奪う術。黒色火薬に唐辛子の粉末や松脂を混ぜた煙幕弾を炸裂させ、追っ手が目を開けられず激しく咳き込んでいる隙に逃走する。

3. 土遁(どとん): 地面の窪み、土手、岩陰、洞窟などを利用して身を隠す術。地面に伏せて土や枯葉を全身に被り、背景と完全に同化する現代のスナイパーのギリースーツの原点である。

4. 金遁(きんとん): 金属の音や硬い器物を利用する術。追っ手の足元に「撒菱(まきびし・鋭い鉄製または水草の種子)」をばら撒いて足裏を負傷させて追撃を阻止する。また、小銭を群衆の中に投げ込み、人々が拾おうと殺到して混乱した隙に逃げ延びる心理的脱出術も金遁と呼ばれた。

5. 水遁(すいとん): 池、川、濠などの水域を利用する術。水中に潜り、竹筒や吹き矢の筒(水松)を水面に出して呼吸を維持する「潜水術」のほか、水面に小石を投げて「敵が飛び込んだ」と誤認させ、逆方向の闇へと脱出する。

自然の法則を深く理解し、決して自然に逆らわず、自然の一部に同化する。五遁とは、環境と敵の生理的反応を冷徹に計算し尽くした、究極の科学的カモフラージュ技術だったのである。

高麗人参や蕎麦粉、梅干しなどをすり鉢ですり潰して携帯保存食の「飢渇丸」と「水渇丸」を調合する忍者の薬学アート数日間の飢餓と渇きに耐えるサバイバル薬「飢渇丸・水渇丸」(忍薬調合イメージ)

飢渇丸と水渇丸――極限の飢餓と渇きを克服する忍薬の調合

敵地に潜入した忍者は、何日も天井裏や床下に潜み、飲まず食わずで息を殺し続けなければならない局面が日常茶飯事であった。そこで発達したのが、高度な漢方薬学に基づく「忍びの携帯保存食(忍薬)」である。

その代表作が『万川集海』に記された「飢渇丸(きかつがん)」と「水渇丸(すいかつがん)」である。

* 飢渇丸(飢えを防ぐ丸薬): 高麗人参(朝鮮人参)、蕎麦粉、小麦粉、山芋、ハトムギ(生薬名:ヨクイニン)、ハスの実などを細かく粉末にし、酒で練り上げて丸薬にしたもの。一日にわずか三粒を服用するだけで、激しい体力の消耗を防ぎ、三日から数週間にわたって飢餓感を覚えずに活動を維持できたという。現代の栄養学で見ても、高タンパク、高ミネラル、血糖値の急激な下降を防ぐ低GI食品の完璧な組み合わせである。

* 水渇丸(喉の渇きを止める丸薬): 梅干しの果肉、氷砂糖、麦門冬(ばくもんどう・渇きを止める漢方生薬)を練り合わせて作られた。これを舌の下に含んでおくだけで、梅の酸味によって唾液の分泌が強力に促進され、水が一滴もない猛暑の山中でも喉の渇きを抑え、気力を維持することができた。

また、ニンニクやニラなどの強い臭いを発する食材は体臭から潜入が露見するため厳禁とされ、逆に体臭を消すための薬草茶を飲むなど、生理学の観点からも徹底した自己管理が貫かれていたのである。

商人や虚無僧に完璧に変装し敵地の城下町で町人と談笑しながら警戒を解いて機密情報を探り出す陽忍の心理戦アート人の心理の隙を突く最高峰の諜報術「陽忍の術」(忍術心理戦イメージ)

人の心の隙を突く「陽忍」――最高峰の心理諜報戦

忍術には、夜陰に乗じて黒装束で忍び込む「陰忍(いんにん)」と、昼間に白昼堂々と敵地に潜入する「陽忍(ようにん)」の二大体系が存在した。そして、忍術書が最も格の高い至高の術として讃えたのは、陰忍ではなく「陽忍」であった。

陽忍の極意は、七つの姿に変装する「七方出(しちほうで)」にある。 商人、山伏、僧侶、虚無僧、放下師(大道芸人)、猿楽師、そして農民。当時の日本社会において、諸国を自由に通行することが公的に認められていた職業に完璧になりすました。

単に服を着替えるだけではない。『正忍記』には、相手の国の方言、専門用語、歩き方、立ち振る舞い、さらにはその土地の寺社の由緒に至るまで完璧に学習し、疑われる隙を微塵も与えないためのマインドセットが説かれている。

さらに恐るべきは、人間の心理バイアスを利用した情報誘導術である。 わざと自分の弱みを見せて相手の警戒を解く「恐気の術」、相手の自尊心をくすぐっておだて上げ、自慢話の中から軍事機密をポロリと喋らせる「天狗の術」など、相手の怒り、油断、恐怖、貪欲といった感情の揺らぎを巧みに操った。

暴力に頼ることなく、知性と心理の力によって敵を無力化し、真実を掴み取って生還する。忍者が遺した忍術書の教えとは、現代の過酷な情報化社会を生き抜く私たちにとっても、最大の武器となる普遍的な「人間観察と自己防衛の叡智」なのである。

森の灯りの作品で楽しむ日本の歴史

夜の竹林に溶け込む忍びの静寂、秘伝書に記された自然の叡智、そして極限のサバイバルを生き抜いた不屈の精神――。日本の忍者や戦国武将たちが培ってきた知恵と技術の深淵は、現代を生きる私たちの心に力強い勇気と創造のインスピレーションを与えてくれます。

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・忍者の歴史的実像と情報戦の深層――伊賀・甲賀の自治共同体から忍術書『万川集海』、徳川幕府の御庭番へ

参考資料・出典

  • 藤林保武著、中島篤巳訳『完本 万川集海』国書刊行会、2015年
  • 名取三十郎著、中島篤巳訳『正忍記 現代語訳』PHP研究所、2011年
  • 山田雄司『忍者の歴史』角川選書、2016年
  • 山田雄司『忍者の精神』角川新書、2019年
  • 中島篤巳『忍術秘伝の書』新人物往来社、1997年

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