戦国武将幻想塗り絵 見本付き セット01

武田信玄の風林火山と甲州流軍学――孫子の兵法から武田二十四将、騎馬軍団の虚実と信玄堤の治水

紺碧の空を背景に、黄金色に輝く富士の峰がそびえ立つ。その裾野に広がる甲斐の盆地で、紺地に金泥で染め抜かれた巨大な軍旗が風にたなびく。「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」――戦国最強と謳われた名将・武田信玄(1521〜1573年)が本陣に掲げた、言わずと知れた「風林火山(ふうりんかざん)」の旗印です。

古代中国の兵法書『孫子』の軍争篇から採られたこの十六文字は、単なる勇ましいスローガンではありません。戦況に応じて自軍の態勢を変化させる、合理的な軍事思想の表れとして知られます。

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甲斐の虎が掲げた旗印――「風林火山」に秘められた孫子の軍略

  • 疾きこと風の如く:好機が訪れれば、風のごとく瞬く間に進撃して敵の虚を突く。
  • 徐かなること林の如く:態勢を整えるときは、深い森のように静かに構えて敵に気配を悟らせない。
  • 侵掠すること火の如く:攻勢に出れば、猛火のごとく敵陣を一気に攻め立てる。
  • 動かざること山の如く:防御に徹するときは、大山のように微動だにせず敵の攻撃を受け止める。

孫子の原典にはさらに「難知如陰、動如雷霆(知りがたきこと陰の如く、動くこと雷霆の如し)」の二節が続きますが、信玄はこのうち四つの要諦を軍団全体の行動規範として徹底させたと伝えられます。乱世の荒波のなかで、信玄はいかにして精強な武田軍団を組織し、織田信長や徳川家康、そして好敵手・上杉謙信と渡り合ったのか。その強さの秘密は、軍事力だけでなく、人心掌握と領国経営を一体化させた統治の哲学にありました。

人は城、人は石垣――領民と重臣の心を掌握した武田二十四将の合議制

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」――武田信玄の思想を最も端的に物語るとされる、名高い金言です(信玄自身の言葉かどうかは諸説あります)。

織田信長の安土城や上杉謙信の春日山城など、戦国大名たちが険しい山や堅固な石垣に大規模な城郭を築いたのに対し、信玄は生涯にわたって本格的な天守閣や高大な石垣を持つ城を築かなかったと言われます。本拠地は、平地にしつらえられた居館「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた・現在の武田神社)」でした。城壁がいかに堅牢でも、守る人の心が離れれば城は崩れます。逆に、民や家臣が領主を信頼して団結していれば、平地の館でも強敵を寄せ付けない。信玄の防衛構想の基盤は、石や木ではなく「人間の信頼関係」にあったという見方です。

その信頼を制度化したのが、「武田二十四将」に代表される重臣たちとの緊密な合議制でした。山県昌景、馬場信春、高坂昌信、内藤昌秀ら歴戦の宿老から、山本勘助や真田幸隆といった知略に長けた人物まで、信玄は身分にとらわれず適材適所の登用を行ったと伝えられます。

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激突の川中島と三方ヶ原――上杉謙信との一騎打ちと徳川家康を破った野戦

信玄の軍略が戦史に刻んだ最高峰の戦いが、北信濃の覇権を巡って繰り広げられた「川中島の戦い(1553〜1564年)」、とりわけ永禄4年(1561年)の第四次合戦です。千曲川と犀川に挟まれた八幡原で、上杉謙信と武田軍が真っ向から激突しました。濃霧のなか、謙信が単騎で武田本陣へ斬り込み、信玄が軍配でその太刀を受け止めたという「三太刀七太刀」の逸話は、戦国ロマンの頂点として語り継がれています(史実かどうかは議論があります)。

激戦の末、弟・武田信繁や軍師とされる山本勘助らを失いながらも、信玄は別動隊の合流によって上杉軍を退けたと伝えられます。さらに元亀3年(1572年)、上洛を目指す信玄は遠江・三方ヶ原で若き徳川家康と激突します。武田軍は、鶴翼の陣で挑んだ徳川軍を短時間で打ち破りました。家康は命からがら浜松城へ逃げ帰り、のちに自らの苦い表情を描かせた「顰像(しかみぞう)」を戒めとしたと伝えられます。

「武田騎馬軍団」の歴史的実像――伝説の突撃戦法と近世軍学が生んだ虚実

後世の講談や映画で武田軍の象徴として語られるのが、「無敵の武田騎馬軍団」です。赤備えの甲冑をまとった騎馬武者が大地を揺るがして疾走し、敵陣を蹂躙する――その印象は多くの人を魅了してきました。

しかし近年の歴史学や軍事考古学の研究では、この伝説には多くの虚実が含まれていることが指摘されています。当時の日本在来馬(木曽馬など)は体高がおよそ120〜130センチと小柄で、西洋の中世騎士のような重装騎兵の突撃は難しかったと考えられます。戦国時代の馬は主に武将が戦場へ素早く移動するための手段で、実際の戦闘は馬から降りて槍や太刀で戦う形が基本だったという見方が有力です。

それでも武田軍が恐れられたのは、東国の豊富な馬資源を活かした騎兵と歩兵の連携、そして『甲陽軍鑑』などの近世軍学書が信玄を理想の将として描いたことが重なった結果だと考えられています。兵站、通信、偵察、陣形運用を統合した組織的な軍事システムは、同時代でも先進的だったと評価されています。

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国を富ませ民を潤す「信玄堤」――治水と領国経営の英知

武田信玄の偉大さは、合戦の強さだけでは測れません。領民に敬愛された大きな理由として語られるのが、甲斐の国土を変えた「内政と治水」です。甲府盆地は、富士川水系の釜無川と御勅使川が合流する地点に位置し、たびたび洪水に見舞われる土地でした。

そこで信玄は、天文11年(1542年)頃から長い歳月をかけて、「信玄堤(しんげんづつみ)」と呼ばれる堤防を整えていったと伝えられます。その治水思想は、自然の力を力ずくで堰き止めるのではなく、水の勢いを分散させて制御する「柔の治水」と評されます。

  • 霞堤(かすみてい):堤防をあえて途切れさせ、重ねて配置することで、増水した水を逃がして水圧を下げる。
  • 聖牛(せいぎゅう):木材を三角錐に組み、中に石を詰めた水制を川に置き、急流の勢いを弱めて堤防を守る。

信玄堤によって甲府盆地は穀倉地帯へと変わり、領民の暮らしは安定していったとされます。さらに信玄は、分国法『甲州法度之次第』を制定し、領主である自身も法に従う姿勢を示したと伝えられます。軍事・内政・法治が結びついた統治は、民を守り国を育むリーダーシップのあり方を、今も私たちに語りかけています。

森の灯りの作品で楽しむ日本の歴史

風林火山の兵法、武田二十四将の結束、そして領民の暮らしを支えた信玄堤の治水――甲斐の虎が駆け抜けた戦国の歴史は、現代の私たちにも前向きな闘志と知略のヒントを与えてくれます。森の灯りでは、戦国武将たちの雄姿をご自身の手で色鮮やかに再現できる、見本付きのダウンロード版塗り絵をお届けしています。Mori no Akari シリーズの「戦国武将幻想塗り絵」は、色選びに迷ったときの手がかりになります。

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参考資料・出典

  • 柴辻俊六『武田信玄合戦録』角川学芸出版、2006年
  • 平山優『武田信玄』吉川弘文館、2021年
  • 笹本正治『武田信玄と甲斐国』高志書院、2003年

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